a c t i v i t i e s

北海道大学高等教育研究部

活動内容詳細

ACTIVITIES

教養教育 いまむかしSV背景画像
研究部ノート

教養教育 いまむかし

                                                          高等教育研究部 特任教授 𢎭 和順

わたしは、四十数年前、北大に入学しました。当時は、入学後1年半、教養部で学び、その後、学部学科へ移行するという制度でした。教養部での授業は、外国語や体育学を除くと、大半が大教室で多人数の履修者に対して行われており、出欠をとる教員は少なく、一方で授業の休講は多かったと記憶しています。また、学生は、学部学科移行までの通過点という意識が強く、教養教育を通して何かを修得するという意識も希薄であったように思われます。ですから、授業内容よりも単位認定や成績評価にこそ、関心が高かったといえます。

そうした中、年度が改まると、学生の作成した「鬼仏表」という冊子が配布されていました。前年度の成績評価に関して、厳しい教員には「鬼」、易しい教員には「仏」という具合に、学生の方が評定したものでした。われわれも、二年に進級する際、クラス内でデータを集計して、後輩に向けて作成、提供したのですが、その冊子を、今春、研究室の引越し中に発見しました。

〈1980年度2年2組作成の「鬼仏表」(一部)〉

それを手にとると、「鬼仏」の評定だけでなく、たとえば、数学担当教員には「【鬼】 燃えよドラゴンの悪漢に似た鬼の中の鬼。本人は取るべき講義だと力説しているし、又、確かに面白い。しかし、本腰を入れて勉強しないと落とされる」、英語担当教員には「【仏】 コレゾ仏の決定版。休講多く、一人で訳し、一人で授業を進める。英文より脱線話に花が咲く」、人文地理担当教員には「【仏】 早口、軽快で、偏見をふりまわし、講義は最高にオモシロイ。出席はとらないのに、教室は満員となる」といったコメントまでが付されていました。いま振り返ると、先生方に対して、失礼きわまりない表現ばかりで、若気の至りであったと、猛省する次第です。

それに引き換え、現代版「鬼仏表」は、インターネット上で細々と継続されているようですが、いまの学生は、以前、冊子体が作成されていたことなぞ、知る由もありません。教員による成績評価は、かなり平準化され、また成績分布も、公表されているため、無用の長物となりつつあるのです。

思えば、当時は、クラス全員が集い、「鬼仏表」の是非そのものから議論を始め、さらに教員に対する評定とコメントをどう記述するか、深夜まで討論を重ねたものでした。こうしたお陰で、クラス内の結束力が深まったのはもちろんのこと、年齢を重ねた今日においても、定期的にクラス会を開くとともに、集まれば、在りし日の先生方の授業を中心に思い出話ができるのは、ありがたいことです。

教養教育が、卒業後の人生に及ぼす効果や影響は、何でしょうか。少なくとも、われわれが受けた教養教育は、統一性や整合性に乏しいものであり、学生もその意義を理解できずにいたところがありました。とはいえ、当時の先生方からは、少なからず刺戟を受けたことは確かで、それとあわせて、先生方や友人との交流を通して、コミュニケーション力、リーダーシップやチームワーク力などを身につけていったように思います。教養教育の意味とは何か、再考したいと思う昨今です。

メニュー閉じる